おもな制作者:藤原えりこ
「蛇物語百」コンテンツの企画や執筆を行っています。
幼少期よりディズニーアニメーションの「美女と野獣」や、日本昔話絵本の「水乞い型龍蟹報恩譚」、ギリシャ神話の「レダと白鳥」のお話や日本の昔話に中にみる『人間と縁を結ぶ(結ぼうとする)動植物のお話し』が好きでした。このあたり、詳細な嗜好を想い越せばいろいろあるのですが、細かい話はここでは省略します。
そして、愛玩動物として一般的に体毛が豊富な哺乳類などを愛でる気持ちも持っていましたが、そういう感情とは別に、「蛇」という生き物に惹かれていました。
庭に蛇が出ても触れませんでしたし、怖くはありましたが、家の石垣に蛇の抜け殻が残っているといそいそと集めては財布に入れたり観察したりしていました。
動物園に行くと、一番楽しみなのが爬虫類館でした。
そんな好みが色々とあわさって、30歳になる手前くらいでひとつ「こういうコンテンツを作ってみたい」と思い至ったのがこの「蛇物語 百」です。
『物語』という言葉そのものが好きなので「蛇物語」というサイト名にしましたが(幸い、西尾維新による小説「〈物語〉シリーズ」にも被りはなく)、笹間良彦氏の書籍に同名の書籍がありましたので、「キリシタン伝説百話」(谷真介)をリスペクトして、合体させて「蛇物語百」と相成りました。
『百話集めるリソースなどない、集めているうちに息切れしてしまう。どうせできない看板なら最初から掲げないほうがいい』と思っていたのですが、なんだかんだ2019年の終わりくらいからずっと細い糸をここまで保つことができていることもあって、見切り発車ではありますが公開いたします。
以前には、自分自身の思考や内面についてブログを書いてみたことがあるのですが、『自分の内面のことを深く切り出す』という作業に押しつぶされてしまったことがあります。それでもなにか『自分自身のことではないけれど、自分が好きなこと』について発信してみたいという想いから、このようなコンセプトに落ち着きました。
ほそぼそと更新していけたらいいなと思っております…。
SNS(更新情報を流すサービス)
SNSの使い方はずっと悩んでおります。自身が性格的にSNSに振り回されやすく、そしてそれが自分の「やりたいことに対するすべきこと」から逸脱する原因になってしまった、という経験も覚えがあります。もしかしたら最終的にはメールマガジン配信などの形に落ち着くかもしれません。現在は以下のサービスに連携しておりますので、更新情報の受け取りをご希望される方は、ご都合のよいものをフォローお願いいたします。
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Webサイト所有者、管理者:LampMate(ランプメイト)
LampMateは、複数名からなる任意団体(つまりサークル)です。「蛇物語百」ではWEBサイトの保守・点検を担当しています。主にキリスト教会やキリスト教団体向けにウェブ周りのお手伝いをしています。「蛇物語百」によせられるコメントやメッセージは、藤原えりこの他LampMateメンバーが閲覧することもございますことをご了承ください。(→プライバシーポリシー)
【主なWEBコンテンツ】
いつかみ聖書解説
教会ホームページを1時間0円で作る!
教会なび(β版)
LampMate
ことわり(筆:藤原えりこ)
このWEBサイトは、編集責任者である私「藤原えりこ」の内面の特性(嗜好)と私自身の宗教観(≒世界観≒信念)、そしてLampMate様とのご縁、という、か細い糸のつながりによって成り立っています。
冒頭でも書きましたように、私は幼い頃より「神話」や「伝説」、とりわけ「異類婚姻譚」が好きで、また「蛇」という生き物に惹かれている、という人間でした。一般的な同世代の女性と比べると、日本神話なども愛好する側に属する人間だったと思います。
そんな私は、成人になってからキリスト教徒(クリスチャン)となりました。キリスト教とはほとんど縁のない環境で育った身の上で、身内にはキリスト教に詳しい人間がいませんでしたので、「キリスト教徒になることと、宗教的信念がまじりあって形成された(と考えられる)文化の(源泉をキリスト教にたどれなさそうなもの)との付き合い方」というのが己の中でまったくわかりませんでした。
洗礼を受けたばかりの時分には、キリスト教の一部に仏壇を壊したり、神社に訪れることすら忌避するような行動を取る派がいることを知り、私は「他宗教観を源泉に辿ることができる文化は切り捨てるのがキリスト教信仰」なのだと思いました。そうして、自分がかつて好きだったものと距離を取ろうとした時期がありました。
けれど、キリスト教についてさらに詳しくなっていくにつれ、またキリスト教徒の先人たちの歩みを知り、自分のうちのキリスト教徒であり続けるということと、その他の宗教信念を包摂する文化とどう付き合うのが妥当であるのか、以前よりも線引きができるようになりました。また、「宗教信念と文化」というものは決して容易に切り離せるような存在ではないということも知りました。
それによって、それらを完全に分断して交流を断つ必要がない、と思い至りました。
(人間の手に余る力の影響を警戒し、人間の力を過信しないことを警鐘するがゆえに、「そういったものとの交流を断つ必要がある」と考えるキリスト教も、確かに存在します。それは、アルコール依存症の方がアルコールを絶つ方法論と似ているかもしれません。けれど、それはつまり方法論の1つであり、『それもまたキリスト教であると思うが、私はその方法論は採用しない』というのが今の私の立場です。その分離・分割・混淆・分派という動態こそが、キリストの教会である[教会論の立場から言うと]、というのが、少なくとも今の私が採用してる考え方です。これに関しましては参考にした宗教研究者の論がこちらにありますので、興味がある方はどうぞです。)
(これは全く余談ですが、これはある意味で、日本の昔話における「異類」と「人間」の在り方―日本人の庶民感覚が、異なる出自・異なる世界観を持つ存在をどう取り扱うべきかを語り継いだ姿勢、と似ているかもしれません。)
わたくしはキリスト教徒であると同時に日本に帰属意識を持つ日本人であり、日本の文化を愛しており、同時に、今この瞬間から前に進むしかない時間の中を生きざるを得ない――今と未来を歩むほかない、限度のある存在です。
後戻りはできない時間の流れに身を置く小さな存在として「私たちはこれからどうやって歩んでいけばよいのか」ということを考えていきたいし、そのためには古いものから「知る」ということが往々にして大きな実りにつながっていくのではないか、と思っています。
日本の昔話というのは、イギリスでいう所の「妖精物語」(私たちが「ファンタジー」と読んでいるジャンルの前身)とニアリーイコールで語られる文化だと認識していますが(小澤俊夫氏の書籍などを参考にこの解釈に落ち着きました)、
「妖精物語というのは、私たち人間の大きな水先案内人となってくれる存在である」…というのもまた、ファンタジー研究の動機のひとつとして考えてよいようです。
ファンタジーを研究していると、おもしろいパラドックスがいくつもみつかる。一方では、はるか昔から逃避的文学だと軽んじられ、時に蔑まれてきたかと思えば、もう一方では現実の真の姿を映していると称えられ、いわゆる「リアリスティック」な小説よりはるかに人生の神秘を照らす力があると持ち上げられてきた。
(引用:シーラ・イーゴフ著「物語る力 英語圏ファンタジー文学:中世から現代まで」p.19~20)
(中略)
ファンタジーの果たす役割は広汎にわたり、単に教訓を与えることから、普遍的な道徳体系の創造にまで関わっている。作家はファンタジーを使って、社会への不満を表明したり、人間観を述べたり、見える世界と見えない世界の橋渡しをおこなってきた。
ファンタジーというと、すぐに空想への逃避という言葉を連想し、それに低い評価を与えようとする人がいるが、ファンタジーというのは、そんなに生やさしいものではない。それは逃避どころか、現実への挑戦を意味することさえある。
(引用:河合隼雄著「ファンタジーを読む」p.6)
私は「逃避」が妖精物語のもつ効用の主なもののひとつであると主張しました。そして妖精物語のもっているもろもろの効用を否定しない私が、「逃避」という言葉が現在しばしば軽蔑や憐憫のひびきをこめて用いられているのを受け入れられないことははっきりしています。(中略)この言葉を誤用する人たちが、「実生活」とよびたがるものにおいては、通常「逃避」はとても実用的であり、英雄的なものですらあることははっきりしています。
(引用:J.R.R.トールキン「ファンタジーの世界-妖精物語について」p.119)
そして、「指輪物語(Lord of The Ling)」を著したJ・R・Rトールキンは、福音書には妖精物語の最高機能が含まれている…と、自身の創作論の書籍に著していたようです。
福音書は妖精物語を、いや、あらゆる妖精物語の真髄を包含するような偉大な物語を含んでいる。福音書のなかには、多くの驚異がーーとくに芸術的なものが、美しく、感動的なものが含まれている。それは完全な、自己充足的意味における「神話的」なものである。そしてこれらの驚異のなかには、思いつくかぎりにおいて、最も偉大な、最も完全な、「幸せな大詰め」が見られるのである。しかし、この物語は、「歴史」のなかに、第一の世界に入った。「準創造」への願望や熱望は、「創造」の実現にまでたかめられたのである。
「キリストの誕生」は、「人間」の歴史の「幸せな大詰め」だった。「復活」は「神のキリストにおける顕現」の物語の「幸せな大詰め」であった。この物語は喜びに始まり、喜びに終わるのである。その「真実らしく見えるような内部の首尾一貫性」は傑出している。この物語よりも真実である、と考えられる物語はほかにないし、かくも多くの懐疑主義者すらもが、その価値によって、真実の物語として受け入れたものもほかにない。
(ファンタジーの世界ー妖精物語についてーJ. R.Rトールキン/猪熊葉子訳 pp.143~144
私はカトリックではありませんので、トールキンが意味するところの本当のところもわかりえないのかもしれないし、これからもわからないのかもしれません。でも、福音書のよさは自分なりに感じている身ではあるし、それが、キリスト教徒なるものは1%程度しか存在しないこの日本という地で、日本の文脈を踏まえながら、咀嚼して味わっていく地平線の向こうに何が見えるのか――その景色を見たいと願っています。
そのうえでお伝えしておきたいのが、当ウェブサイトでの伝承の扱い方は、「できるだけ元のお話の意図に沿う形」で「読みやすく」をモットーとしており、例えば『私はこのお話の結末が納得できない。だからここは変更しよう』といった営みはではない、という点です。
現代において創作活動としての評価が高いのは再創造性の高いものであることは承知しておりますが、私自身、このように伝承を漁っていく途中で「それにしても自分は、元の伝承も十分知らなかったんだな」という発見の連続であり、周囲を見渡して色んな方の意見を眺めていても、意外とそういう方は多いような印象を受けました。
「日本の民話を学ぶ人のために」という民話研究入門書に、次のようなお話がありましたので、言葉をお借りしたいと思います。
民話紙芝居は、再創造性のあるものと伝承性のあるもの、この二タイプに分けられることになるが、民話と紙芝居の関係を詳しく究明したら、もっと異なる分類も可能だろう。
しかしながら、民話紙芝居にあっては、再創造性のあるものの方が評価をやすい。メディア化する事は、別のメディアの特性に移し変えることによって、物語は再構成され、再創造されるべきで、この評価は当然と言える。もう一方の伝承性のある民話紙芝居は評価されにくいことになる。別のメディアに移し変えられても、本来の特性を多く保守していては、評価できるところが少ないとも言える。このような評価の傾向は、紙芝居に限らないのではないか。アニメーション映画にあっても、詳細に検討してみると、同様なことが言えるのではないか。けれど、民話とメディア化を考える時、その母体は民話であり、メディア化はそれから派生するものである。豊富でバラエティにあふれた素材としての母胎である民話自体の伝承はもちろんであるが、伝承を助けるメディア化も歓迎すべきではないか。前述したように、民話が多く伝承されている地域の子どもたちにも、民話は伝わりにくくなっている現代である。伝承を助けるメディア化によっても、もっと伝える必要があるのではないか。母胎たる民話の伝承が衰退しては、優れた再創造もありえないことになるのだから。
(2000年,世界思想社「日本の民話を学ぶ人のために」上地ちづ子『民話とメディア』よりpp.298-299)
このウェブサイトでの取り扱いかたは「本来の特性を多く保守」している側に寄っていますので、読む方によっては面白くないと感じられるかもしれません。ただし、「素材として利用したい」という需要にはそれなりに応えた営みになるのではないだろうか、とは思っています。そういった意味もあって、参考にした書籍などは明記しておりますので、気になる方はそちらをご活用ください。
こういった想いとコンセプトに理解を示していただいたLampMate様の協力のもと「蛇物語百」は生まれました。
妖精の国は危険なところです。そこには、不注意な者いは、落とし穴が、無鉄砲な者には、地下牢が待ち受けています。
(中略)
広く、深く、高い妖精物語の国には、多くのものがみちています。そこにはありとあらゆるかたちのけものや鳥が見出せます。果てしない海、数えきれぬ星々。魂を魅了し、同時にたえざる危険をもたらす美。剣のようにするどい喜びや悲しみ。
その国へ行った者は、多分そこをさまよい歩くことができただけでも幸せだったと思うでしょうが、この国のあまりの豊かさとふしぎさは、それを伝えようとする旅人の口を封じてしまいます。
(J.R.R.トールキン著/ 猪熊葉子訳「ファンタジーの世界~妖精物語についてー」p8~9より)
私がこれを完了できるのか、その先に見えた世界に何があるのか、私はどこへ行くのか、わかりません。
ただ、星の数ほどあるコンテンツの中からこのWEBサイトに入ってきてくださった方に、不可思議で魅力的な言い伝えたちを少しだけおすそ分けできれば幸いです。このようなところまで読んでくださり、ありがとうございます。
ごゆるりとお楽しみください。