この記事は、青空文庫「泉鏡花 『海神別荘』」をそのままの文章で、台詞をチャットノベル形式にデザインしなおし、明らかに難解な用語の解説を途中途中に挿入しなおしています。
▽朗読動画もありました!
「それでも読みにくい」という方は、↓のコラムで現代文風に直し&ビジュアルなどを入れたものがございますのでご笑覧ください。意訳になっている部分や端折っている部分はございますのでその点ご了承下さい。
時-現代。
場所-海底の琅玕殿。
人物-公子。沖の僧都(年老いたる海坊主)。美女。博士。女房。侍女(七人)。黒潮騎士(多数)。
[#改ページ]
「海神別荘」はじまり、はじまり…
森厳藍碧なる琅殿裡。黒影あり。――沖の僧都(※)。
(※)僧都… 僧官である僧綱の一つ。僧正に次いで僧侶を統轄するもの
お腰元衆(※)
お腰元衆…貴人のそば近く仕えて身辺の雑用をする人々。
(薄色の洋装したるが扉より出づ)はい、はい。これは御僧。
や、目覚しく、美しい、異った扮装でおいでなさる。
御挨拶でございます。美しいかどうかは存じませんけれど、異った支度には違いないのでございます。若様、かねてのお望みが叶いまして、今夜お輿入のございます。若奥様が、島田のお髪(※)、お振袖と承りましたから、私どもは、余計そのお姿のお目立ち遊ばすように、皆して、かように申合せましたのでございます。
(※)島田のお髪…島田髷。日本髪の代表的な髪形
はあ、さてもお似合いなされたが、いずこの浦の風俗じゃろうな。
御僧こそ、なんども海の上へ行かれるのですからよく御存じでしょう?
いや、荒海を切って影を顕すのは暴風雨の折から。如法(※)たいてい暗夜じゃに因って、見えるのは墓の船に、死骸の蠢く裸体ばかり。色ある女性の衣などは睫毛にも掛りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、蒼い炎の息を吹いても、素奴色の白いはないか、袖の紅いはないか、と胴の間、狭間、帆柱の根、錨綱の下までも、あなぐり探いたものなれども、孫子(※)は措け、僧都においては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内じゃ。
(※)如法…① 仏語。 きめられた法式どおりにすること。仏の教法どおりにすること。また、そのさま。
(※)孫子…1 孫と子。2 子孫。後裔 (こうえい) 。
(笑う)お精進でおいで遊ばします。もし、これは、桜貝、蘇芳貝、いろいろの貝を蕊(※)にして、花の波が白く咲きます、その渚を、青い山、緑の小松に包まれて、大陸の婦たちが、夏の頃、百合、桔梗、月見草、夕顔の雪の装などして、旭の光、月影に、遥に(高濶なる碧瑠璃の天井を、髪艶やかに打仰ぐ)姿を映します。ああ、風情な。美しいと視めましたものでございますから、私ども皆が、今夜はこの服装に揃えました。
(※)蕊…1 雄しべと雌しべ。ずい。2 ひも・緒などのふさのもとにつける飾り。
一段とお見事じゃ。が、朝ほど御機嫌伺いに出ました節は、御殿、お腰元衆、いずれも不断の服装でおいでなされた。その節は、今宵、あの美女がこれへ輿入の儀はまだ極らなんだ。じたい人間は決断が遅いに因ってな。……それじゃに、かねてのお心掛か。弥疾く装が間に合うたもののう。
まあ、貴老は。私たちこの玉のような皆の膚は、白い尾花の穂を散らした、山々の秋の錦が水に映ると同じに、こうと思えば、ついそれなりに、思うまま、身の装の出来ます体でおりますものを。貴老はお忘れなさいましたか。貴老は。……貴老だとて違いはしません。緋の法衣を召そうと思えば、お思いなさいます、と右左、峯に、一本燃立つような。
ま、ま、分った。
腰を屈めつつ、圧うるがごとく掌を挙げて制す
何とも相済まぬ儀じゃ。海の住居の難有さに馴れて、蔭日向、雲の往来に、潮の色の変ると同様。如意自在(※)心のまま、たちどころに身の装の成る事を忘れていました。
なれども、僧都が身は、こうした墨染の暗夜こそ可けれ、なまじ緋の法衣など絡おうなら、ずぶ濡の提灯じゃ、戸惑をしたの魚じゃなどと申そう。圧も石も利く事ではない。
(細く丈長き鉄の錨を倒にして携えたる杖を、軽く突直す。)
いや、また忘れてはならぬ。忘れぬ前に申上げたい儀で罷出た。若様へお取次を頼みましょ。
畏りました。唯今。……あの、ちょうど可い折に存じます。
右の方闥を排して行く。
(謹みたる体にて室内を眗す。)はあ、争われぬ(※)。法衣の袖に春がそよぐ。(錨の杖を抱きて彳む。)
(※)
(衝と押す、闥を排きて、性急に登場す(※)。面玉のごとく臈丈けたり。黒髪を背に捌く。青地錦の直垂、黄金づくりの剣を佩く。上段、一階高き床の端に、端然として立つ。)
爺い、見えたか。
侍女五人、以前の一人を真先に、すらすらと従い出づ。
いずれも洋装。第五の侍女、年最も少し。二人は床の上、公子の背後に。二人は床を下りて僧都の前に。第一の侍女はその背に立つ。
は。(大床に跪く。控えたる侍女一、件の錨の杖を預る)これはこれは、御休息の処を恐入りましてござります。
(親しげに)爺い、用か。
紺青、群青、白群、朱、碧の御蔵の中より、この度の儀に就きまして、先方へお遣わしになりました、品々の類と、数々を、念のために申上げとうござりまして。
(立ちたるまま)おお、あの女の父親に遣った、陸で結納とか云うものの事か。
はあ、いや、御聡明なる若様。若様にはお覚違いでござります。彼等夥間に結納と申すは、親々が縁を結び、媒妁人(※)の手をもち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。しかるにこの度は、先方の父親が、若様の御支配遊ばす、わたつみ(※)の財宝に望を掛け、もしこの念願の届くにおいては、眉目容色、世に類なき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓いました。すなわち、彼が望みの宝をお遣しになりましたに因って、是非に及ばず、誓言の通り、娘を波に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた数の宝は、彼等が結納と申そうより、俗に女の身代と云うものにござりますので。
(※)
(※)
(軽く頷く)可、何にしろすこしばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。
いやいや、鱗一枚、一草の空貝(※)とは申せ、僧都が承りました上は、活達なる(※)若様、かような事はお気煩かしゅうおいでなさりましょうなれども、老のしょうがに、お耳に入れねばなりませぬ。お腰元衆もお執成。(五人の侍女に目遣す)平にお聞取りを願わしゅう。
(※)
(※)
若様、お座へ。
(顧みて)椅子をこちらへ。
侍女三、四、両人して白き枝珊瑚(※)の椅子を捧げ、床の端近に据う。
大隋円形の白き琅の、沈みたる光沢を帯べる卓子、上段の中央にあり。
枝のままなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅きは花のごとく、白きは霞のごときを、相対して置く。
侍女等が捧出でて位置を変えて据えたるは、その白き方一脚なり。
真鯛大小八千枚。鰤、鮪、ともに二万疋。鰹、真那鰹、各一万本。大比目魚五千枚。鱚、魴、鯒、身魚、目張魚、藻魚、合せて七百籠。若布のその幅六丈、長さ十五尋のもの、百枚一巻九千連。鮟鱇五十袋。虎河豚一頭。大の鮹一番。さて、別にまた、月の灘の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(この分、手にて仕方す)周囲三抱の分にござりまして。ええ、月の真珠、花の真珠、雪の真珠、いずれも一寸の珠三十三粒、八分の珠百五粒、紅宝玉三十顆、大さ鶴の卵、粒を揃えて、これは碧瑪瑙の盆に装り、緑宝玉、三百顆、孔雀の尾の渦巻の数に合せ、紫の瑠璃の台、五色に透いて輝きまする鰐の皮三十六枚、沙金の包七十袋。量目約百万両。閻浮檀金十斤也。緞子、縮緬、綾、錦、牡丹、芍薬、菊の花、黄金色の董、銀覆輪の、月草、露草。
もしもし、唯今のそれは、あの、残らず、そのお娘御の身の代とかにお遣わしの分なのでございますか。
残らず身の代と?……はあ、いかさまな。(心付く)不重宝(※)。これはこれは海松ふさの袖に記して覚えのまま、潮に乗って、颯と読流しました。はて、何から申した事やら、品目の多い処へ、数々ゆえに。ええええ、真鯛大小八千枚。
鰤、鮪ともに二万疋。鰹、真那鰹各一万本。
(僧都の前にあり)大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚の類合せて七百籠。
(公子の背後にあり)若布のその幅六丈、長さ十五尋のもの百枚一巻九千連。
(同じく公子の背後に)鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹一番。まあ……(笑う。侍女皆笑う。)
(額の汗を拭く)それそれさよう、さよう。
(微笑しつつ)笑うな、老人は真面目でいる。
(最も少し。斉しく公子の背後に附添う。派手に美しき声す)月の灘の桃色の枝珊瑚樹、対の一株、丈八尺、周囲三抱の分。一寸の玉三十三粒……雪の真珠、花の真珠。
月の真珠。
しばらく。までじゃまでじゃ、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、周囲三抱の分までにござった。(公子に)鶴の卵ほどの紅宝玉、孔雀の渦巻の緑宝玉、青瑪瑙の盆、紫の瑠璃の台。この分は、天なる(仰いで礼拝す)月宮殿に貢のものにござりました。
私もそうらしく思って聞いた。僧都、それから後に言われた、その董、露草などは、金銀宝玉の類は云うまでもない、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あの方へ遣わしたものか。
綾、錦、牡丹、芍薬、縺れも散りもいたしませぬを、老人の申条、はや、また海松のように乱れました。ええええ、その董、露草は、若様、この度の御旅行につき、白雪の竜馬にめされ、渚を掛けて浦づたい、朝夕の、茜、紫、雲の上を山の峰へお潜びにてお出ましの節、珍しくお手に入りましたを、御姉君、乙姫様へ御進物の分でござりました。
姫様は、閻浮檀金の一輪挿に、真珠の露でお活け遊ばし、お手許をお離しなさいませぬそうにございます。
度々は手に入らない。私も大方、姉上に進げたその事であろうと思った。
御意。娘の親へ遣わしましたは、真鯛より数えまして、珊瑚一対……までに止まりました。
海では何ほどの事でもございませんが、受取ります陸の人には、鯛も比目魚も千と万、少ない数ではございますまいに、僅な日の間に、ようお手廻し、お遣わしになりましてございます。
さればその事。一国、一島、津や浦の果から果を一網にもせい、人間夥間が、大海原から取入れます獲ものというは、貝に溜った雫ほどにいささかなものでござっての、お腰元衆など思うてもみられまい、鉤の尖に虫を附けて雑魚一筋を釣るという仙人業をしまするよ。この度の娘の父は、さまでにもなけれども、小船一つで網を打つが、海月ほどにしょぼりと拡げて、泡にも足らぬ小魚を掬う。入ものが小さき故に、それが希望を満しますに、手間の入ること、何ともまだるい。鰯を育てて鯨にするより歯痒い段の行止り。(公子に向う)若様は御性急じゃ。早く彼が願を満たいて、誓の美女を取れ、と御意ある。よって、黒潮、赤潮の御手兵をちとばかり動かしましたわ。赤潮の剣は、炎の稲妻、黒潮の黒い旗は、黒雲の峰を築いて、沖からと浴びせたほどに、一浦の津波となって、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、門背戸かけて、畳天井、一斉に、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござったよ。
まあ、お勇ましい。
(少し俯向く)勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。
いや、いや、黒潮と赤潮が、密と爪弾きしましたばかり。人命を断つほどではござりませなんだ。もっとも迷惑をせば、いたせ、娘の親が人間同士の間でさえ、自分ばかりは、思い懸けない海の幸を、黄金の山ほど掴みましたに因って、他の人々の難渋ごときはいささか気にも留めませぬに、海のお世子であらせられます若様。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭当りませぬ儀でございます。
(頷く)そんなら可――僧都。
はは。(更めて手を支く。)
あれの親は、こちらから遣わした、娘の身の代とかいうものに満足をしたであろうか。
御意、満足いたしましたればこそ、当御殿、お求めに従い、美女を沈めました儀にござります。もっとも、真鯛、鰹、真那鰹、その金銀の魚類のみでは、満足をしませなんだが、続いて、三抱え一対の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の端出づる月の光に、真紫に輝きまするを夢のように抱きました時、あれの父親は白砂に領伏し、波の裙を吸いました。あわれ竜神、一命も捧げ奉ると、御恩のほどを難有がりましたのでござります。
(微笑す)親仁の命などは御免だな。そんな魂を引取ると、海月が殖えて、迷惑をするよ。
あんな事をおっしゃいます。
一同笑う。
けれども僧都、そんな事で満足した、人間の慾は浅いものだね。
まだまだ、あれは深い方でござります。一人娘の身に代えて、海の宝を望みましたは、慾念の逞い故でござりまして。……たかだかは人間同士、夥間うちで、白い柔な膩身を、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら売り渡すのが、峠の関所かと心得ます。
馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ)恋しい女よ。望めば生命でも遣ろうものを。……はは、はは。
微笑す。
お思われ遊ばした娘御は、天地かけて、波かけて、お仕合せでおいで遊ばします。
早くお着き遊せば可うございます。私どももお待遠に存じ上げます。
道中の様子を見よう、旅の様子を見よう。(闥の外に向って呼ぶ)おいおい、居間の鏡を寄越せ。
(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦の蔽を掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。)
僧都も御覧。
失礼ながら。(膝行して進む。侍女等、姿見を卓子の上に据え、錦の蔽を展く。侍女等、卓子の端の一方に集る。)
(姿見の面を指し、僧都を見返る)あれだ、あれだ。あの一点の光がそれだ。お前たちも見ないか。
-舞台転ず。
しばし暗黒、寂寞として波濤の音聞ゆ。
やがて一個、花白く葉の青き蓮華燈籠、漂々として波に漾えるがごとく顕る。
続いて花の赤き同じ燈籠、中空のごとき高処に出づ。また出づ、やや低し。
なお見ゆ、少しく高し。その数五個になる時、累々たる波の舞台を露す。
美女。毛巻島田に結う。白の振袖、綾の帯、紅の長襦袢、胸に水晶の数珠をかけ、襟に両袖を占めて、波の上に、雪のごとき竜馬に乗せらる。
およそ手綱の丈を隔てて、一人下髪の女房。旅扮装。素足、小袿に褄端折りて、片手に市女笠を携え、片手に蓮華燈籠を提ぐ。第一点の燈の影はこれなり。
黒潮騎士、美女の白竜馬をひしひしと囲んで両側二列を造る。およそ十人。皆崑崙奴の形相。手に手に、すくすくと槍を立つ。穂先白く晃々として、氷柱倒に黒髪を縫う。あるものは燈籠を槍に結ぶ、灯の高きはこれなり。あるものは手にし、あるものは腰にす。
貴女、お草臥でございましょう。一息、お休息なさいますか。
(夢見るようにその瞳を睜く)もし、誰方ですか。……私の身体は足を空に、(馬の背に裳を掻緊む)倒に落ちて落ちて、波に沈んでいるのでしょうか。ああ…
いいえ、お美しいお髪一筋、風にも波にもお縺れはなさいません。何でお身体が倒などと、そんな事がございましょう。
いつか、いつですか、昨夜か、今夜か、前の世ですか。私が一人、楫も櫓もない、舟に、筵に乗せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ捕られて行く、私へ供養のためだと云って、船の左右へ、前後に、波のまにまに散って浮く……蓮華燈籠が流れました。
水に目のお馴れなさいません、貴女には道しるべ、また土産にもと存じまして、これが、(手に翳す)その燈籠でございます。
まあ、灯も消えずに……
燃えた火の消えますのは、油の尽きる、風の吹く、陸ばかりの事でございます。一度、この国へ受取りますと、ここには風が吹きません。ただ花の香の、ほんのりと通うばかりでございます。紙の細工も珠に替って、葉の青いのは、翡翠の琅、花片の紅白は、真玉、白珠、紅宝玉。燃ゆる灯も、またたきながら消えない星でございます。御覧遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髪も乱れはしますまい。何で、お身体が倒でございましょう。
最後に一目、故郷の浦の近い峰に、月を見たと思いました。それぎり、底へ引くように船が沈んで、私は波に落ちたのです。ただ幻に、その燈籠の様な蒼い影を見て、胸を離れて遠くへ行く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思いましたが、ふと見ますと、前途にも、あれあれ、遥の下と思う処に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。
ああ、(望む)あの光は。いえ。月影ではございません。
でも、貴方、雲が見えます、雪のような、空が見えます、瑠璃色の。そして、真白な絹糸のような光が射します。
その雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、これから貴女がお出遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎え申すのです。
そして。参って、私の身体は、どうなるのでございましょうねえ。
ほほほ、(笑う)何事も申しますまい。ただお嬉しい事なのです。おめでとう存じます。
あの、捨小舟に流されて、海の贄に取られて行く、あの、(す)これが、嬉しい事なのでしょうか。めでたい事なのでしょうかねえ。
(再び笑う)お国ではいかがでございましょうか。私たちが故郷では、もうこの上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。
あすこまで、道程は?
お国でたとえは煩かしい。……おお、五十三次と承ります、東海道を十度ずつ、三百度、往還りを繰返して、三千度いたしますほどでございましょう。
ええ、そんなに。
めした竜馬は風よりも早し、お道筋は黄金の欄干、白銀の波のお廊下、ただ花の香りの中を、やがてお着きなさいます。
潮風、磯の香、海松、海藻の、咽喉を刺す硫黄の臭気と思いのほか、ほんに、清しい、佳い薫、(柔に袖を動かす)……ですが、時々、悚然する、腥い香のしますのは?……
人間の魂が、貴女を慕うのでございます。海月が寄るのでございます。
人の魂が、海月と云って?
海に参ります醜い人間の魂は、皆、海月になって、ふわふわさまようて歩行きますのでございます。
(口々に)――煩い。しっしっ。――
しっしっ。――(と、ものなき竜馬の周囲を呵す。)
まあ、情ない、お恥しい。(袖をもって面を蔽う。)
いえ、貴女は、あの御殿の若様の、新夫人でいらっしゃいます、もはや人間ではありません。
ええ。
(袖を落す。――舞台転ず。真暗になる。)――
(女房 声のみして)
急ぎましょう。美しい方を見ると、黒鰐、赤鮫が襲います。騎馬が前後を守護しました。お憂慮はありませんが、いぎ参ると、斬合い攻合う、修羅の巷をお目に懸けねばなりません。
――騎馬の方々、急いで下さい。
燈籠一つ行き、続いて一つ行く。漂蕩する趣して、高く低く奥の方深く行く。
舞台燦然として明るし、前の琅玕殿顕る。
公子、椅子の位置を卓子に正しく直して掛けて、姿見の傍にあり。向って右の上座。左の方に赤き枝珊瑚の椅子、人なくしてただ据えらる。
その椅子を斜に下りて、沖の僧都、この度は腰掛けてあり。黒き珊瑚、小形なる椅子を用いる。おなじ小形の椅子に、向って正面に一人、ほぼ唐代の儒の服装したる、髯黒き一人あり。博士なり。
侍女七人、花のごとくその間を装い立つ。
博士、お呼立をしました。
(敬礼す。)
これを御覧なさい。(姿見の面を示す。)
千仭の崕を累ねた、漆のような波の間を、幽に蒼い灯に照らされて、白馬の背に手綱したは、この度迎え取るおもいものなんです。陸に獅子、虎の狙うと同一に、入道鰐、坊主鮫の一類が、美女と見れば、途中に襲撃って、黒髪を吸い、白き乳を裂き、美しい血を呑もうとするから、守備のために旅行さきで、手にあり合せただけ、少数の黒潮騎士を附添わせた。渠等は白刃を揃えている。
至極のお計いに心得まするが。
ところが、敵に備うるここの守備を出払わしたから不用心じゃ、危険であろう、と僧都が言われる。……それは恐れん、私が居れば仔細ない。けれども、また、僧都の言われるには、白衣に緋の襲した女子を馬に乗せて、黒髪を槍尖で縫ったのは、かの国で引廻しとか称えた罪人の姿に似ている、私の手許に迎入るるものを、不祥じゃ、忌わしいと言うのです。
事実不祥なれば、途中の保護は他にいくらも手段があります。それは構わないが、私はいささかも不祥と思わん、忌わしいと思わない。
これを見ないか。私の領分に入った女の顔は、白い玉が月の光に包まれたと同一に、いよいよ清い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の紅は冴えて、いささかも窶れない。憂えておらん。清らかな衣を着、新に梳って、花に露の点滴る装して、馬に騎した姿は、かの国の花野の丈を、錦の山の懐に抽く……歩行より、車より、駕籠に乗ったより、一層鮮麗なものだと思う。その上、選抜した慓悍な黒潮騎士の精鋭等に、長槍をもって四辺を払わせて通るのです。得意思うべしではないのですか。
(頻に頭を傾く。)
引廻しと聞けば、恥を見せるのでしょう、苦痛を与えるのであろう。槍で囲み、旗を立て、淡く清く装った得意の人を馬に乗せて市を練って、やがて刑場に送って殺した処で、――殺されるものは平凡に疾病で死するより愉快でしょう。――それが何の刑罰になるのですか。陸と海と、国が違い、人情が違っても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想う。僧都は、うろ覚えながら確に記憶に残ると言われる。……貴下をお呼立した次第です。ちょっとお験べを願いましょうか。
仰聞けの記憶は私にもありますで。しかし、念のために験べまするで。ええ、陸上一切の刑法の記録でありましょうか、それとも。
面倒です、あとはどうでも可い。ただ女子を馬に乗せ、槍を立てて引廻したという、そんな事があったかという、それだけです。
正史でなく、小説、浄瑠璃の中を見ましょうで。時の人情と風俗とは、史書よりもむしろこの方が適当でありますので。(金光燦爛たる洋綴の書を展く。)
(卓子に腰を掛く)たいそう気の利いた書物ですね。
これは、仏国の大帝奈翁が、西暦千八百八年、西班牙遠征の途に上りました時、かねて世界有数の読書家。必要によって当時の図書館長バルビールに命じて製らせました、函入新装の、一千巻、一架の内容は、宗教四十巻、叙事詩四十巻、戯曲四十巻、その他の詩篇六十巻。歴史六十巻、小説百巻、と申しまするデュオデシモ形と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君、乙姫様が御工夫を遊ばしました。蓮の糸、一筋を、およそ枚数千頁に薄く織拡げて、一万枚が一折、一百二十折を合せて一冊に綴じましたものでありまして、この国の微妙なる光に展きますると、森羅万象、人類をはじめ、動植物、鉱物、一切の元素が、一々ずつ微細なる活字となって、しかも、各々五色の輝を放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、句読、いずれも個々別々、七彩に照って、かく開きました真白な枚の上へ、自然と、染め出さるるのでありまして。
姉上公子が、それを。――さぞ、御秘蔵のものでしょう。
御秘蔵ながら、若様の御書物蔵へも、整然と姫様がお備えつけでありますので。
では、私の所有ですか。
若様はこの冊子と同じものを、瑪瑙に青貝の蒔絵の書棚、五百架、御所有でいらせられまする次第であります。
姉があって幸福です。どれ、(取って披く)これは……ただ白紙だね。
は、恐れながら、それぞれの予備の知識がありませんでは、自然のその色彩ある活字は、ペエジの上には写り兼ねるのでございます。
恥入るね。
もろともに、お勧め申上げますでござります。
いやいや、若様は御勇武でいらせられます。入道鰐、黒鮫の襲いまする節は、御訓練の黒潮、赤潮騎士、御手の剣でのうては御退けになりまする次第には参らぬのでありまして。けれども、姉姫様の御心づくし、節々は御閲読の儀をお勧め申まするので。
(頷く)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。
確に。(書を披く)手近に浄瑠璃にありました。ああ、これにあります。……若様、これは大日本浪華の町人、大経師以春の年若き女房、名だたる美女のおさん。手代茂右衛門と不義顕れ、すなわち引廻し礫になりまする処を、記したのでありまして。
お読み。
(朗読す)――紅蓮の井戸堀、焦熱の、地獄のかま塗よしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の田長の田がりよし、野辺より先を見渡せば、過ぎし冬至の冬枯の、木の間木の間にちらちらと、ぬき身の槍の恐しや、――
(姿見を覗きつつ、且つ聴きつつ)ああ、いくらか似ている。
――また冷返る夕嵐、雪の松原、この世から、かかる苦患におう亡日、島田乱れてはらはらはら、顔にはいつもはんげしょう、縛られし手の冷たさは、我身一つの寒の入、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。……
(侍女等、傾聴す。)
ただ、いい姿です、美しい形です。世間はそれでその女の罪を責めたと思うのだろうか。
まず、ト見えまするので。
さようでございます。
馬に騎った女は、殺されても恋が叶い、思いが届いて、さぞ本望であろうがね。
――袖に氷を結びけり。涙などと、歎き悲しんだようにござります。
それは、その引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭を掉る。)
博士――まだほかに例があるのですか。
(朗読す)……世の哀とぞなりにける。今日は神田のくずれ橋に恥をさらし、または四谷、芝、浅草、日本橋に人こぞりて、見るに惜まぬはなし。これを思うに、かりにも人は悪き事をせまじきものなり。天これを許したまわぬなり。……
(眉を顰む。――侍女等斉しく不審の面色す。)
……この女思込みし事なれば、身の窶るる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて美わしき風情。……
(色解く。侍女等、眉をひらく。)
中略をいたします。……聞く人一しおいたわしく、その姿を見おくりけるに、限ある命のうち、入相の鐘つくころ、品かわりたる道芝の辺にして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いずれの道にも煙はのがれず、殊に不便はこれにぞありける。――これで、鈴ヶ森で火刑に処せられまするまでを、確か江戸中棄札に槍を立てて引廻した筈と心得まするので。
分りました。それはお七という娘でしょう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。どこに当人が歎き悲みなぞしたのですか。人に惜まれ可哀がられて、女それ自身は大満足で、自若として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵の杖、情の鞭だ。実際その罪を罰しようとするには、そのまま無事に置いて、平凡に愚図愚図に生存らえさせて、皺だらけの婆にして、その娘を終らせるが可いと、私は思う。
……分けて、現在、殊にそのお七のごときは、姉上が海へお引取りになった。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かった。姉上は御覧になった。鉄の鎖は手足を繋いだ、燃草は夕霜を置残してその肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子を燃え抜いた。緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるより美しかった。恋の火の白熱は、凝って白玉となる、その膚を、氷った雛芥子の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注いだのだった。そのまま海の底へお引取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅の珊瑚の中に、結綿の花を咲かせているのではないか。
男は死ななかった。存命えて坊主になって老い朽ちた。娘のために、姉上はそれさえお引取りになった。けれども、その魂は、途中で牡の海月になった。――時々未練に娘を覗いて、赤潮に追払われて、醜く、ふらふらと生白く漾うて失する。あわれなものだ。
娘は幸福ではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼の生命を飾ったのです。抜身の槍の刑罰が馬の左右に、その誉を輝かすと同一に。――博士いかがですか、僧都。
しかし、しかし若様、私は慎重にお答えをいたしまする。身はこの職にありながら、事実、人間界の心も情も、まだいささかも分らぬのでありまして。若様、唯今の仰せは、それは、すべて海の中にのみ留まりまするが。
(穏和に頷く)姉上も、以前お分りにならぬと言われた。その上、貴下がお分りにならなければこれは誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違う。彼を迎える、道中のこの(また姿見を指す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思う。
唯今、仰せ聞けられ承りまする内に、条理は弁えず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、ただ、黒潮の抜身で囲みました段は、別に忌わしい事ではござりませんように、老人にも、その合点参りましてござります。
可、しかし僧都、ここに蓮華燈籠の意味も分った。が、一つ見馴れないものが見えるぞ。女が、黒髪と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、あれは何かね。
はあ。(卓子に伸上る)はは、いかさま、いや、若様。あれは水晶の数珠にございます。海に沈みまする覚悟につき、冥土に参る心得のため、檀那寺の和尚が授けましたのでござります。
公子 冥土とは?……それこそ不埒だ。そして仇光りがする、あれは……水晶か。
水晶とは申す条、近頃は専ら硝子を用いますので。
(一笑す)私の恋人ともあろうものが、無ければ可い。が、硝子とは何事ですか。金剛石、また真珠の揃うたのが可い。……博士、贈ってしかるべき頸飾をお検べ下さい。
畏りました。
そして指環の珠の色も怪しい、お前たちどう見たか。
近頃は、かんてらの灯の露店に、紅宝玉、緑宝玉と申して、貝を鬻ぐと承ります。
お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚に散った、あの貝が宝石か。
錦襴の服を着けて、青い頭巾を被りました、立派な玉商人の売りますものも、擬が多いそうにございます。
博士、ついでに指環を贈ろう。僧都、すぐに出向うて、遠路であるが、途中、早速、硝子とその擬い珠を取棄てさして下さい。お老寄に、御苦労ながら。
(苦笑す)若様には、新夫人の、まだ、海にお馴れなさらず、御到着の遅いばかり気になされて、老人が、ここに形を消せば、瞬く間ものう、お姿見の中の御馬の前に映りまする神通を、お忘れなされて、老寄に苦労などと、心外な御意を蒙りまするわ。
ははは、(無邪気に笑う)失礼をしました。
博士、僧都、一揖して廻廊より退場す。侍女等慇懃に見送る。
少し窮屈であったげな。
侍女等親しげに皆その前後に斉眉き寄る。
性急な私だ。――女を待つ間の心遣にしたい。誰か、あの国の歌を知っておらんか。
存じております。浪花津に咲くやこの花冬籠、今を春へと咲くやこの花。
若様、私も存じております。浅香山を。
いや、そんなのではない。(博士がおきたる書を披きつつ)女の国の東海道、道中の唄だ。何とか云うのだった。この書はいくらか覚えがないと、文字が見えないのだそうだ。(呟く)姉上は貴重な、しかし、少しあてっこすりの書をお拵えになったよ。ああ、何とか云った、東海道の。
五十三次のでございましょう、私が少し存じております。
歌うてみないか。
はい。(朗かに優しくあわれに唄う。)
都路は五十路あまりの三つの宿、……
おお、それだ、字書のように、江戸紫で、都路と標目が出た。(展く)あとを。
……時得て咲くや江戸の花、浪静なる品川や、やがて越来る川崎の、軒端ならぶる神奈川は、早や程ヶ谷に程もなく、暮れて戸塚に宿るらむ。紫匂う藤沢の、野面に続く平塚も、もとのあわれは大磯か。蛙鳴くなる小田原は。……
(極悪げに)……もうあとは忘れました。
可、ここに緑の活字が、白い雲の枚に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教えてやろう。この歌で、五十三次の宿を覚えて、お前たち、あの道中双六というものを遊んでみないか。上りは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人上って、双六の済む時分、ちょうど、この女は(姿見を見つつ)着くであろう。一番上りのものには、瑪瑙の莢に、紅宝玉の実を装った、あの造りものの吉祥果を遣る。絵は直ぐに間に合ぬ。この室を五十三に割って双六の目に合せて、一人ずつ身体を進めるが可かろう。……賽が要る、持って来い。
(侍女六七、うつむいてともに微笑す)
――どうした。
姿見をお取寄せ遊ばしました時。
二人して盤の双六をしておりましたので、賽は持っておりますのでございます。
おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順になって始めるが可い。
床へ振りましょうでございますか。
心あって招かないのに来た、賽にも魂がある、寄越せ。(受取る)卓子の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に従うて順に動くが可い。さあ、集れ。
(侍女七人、いそいそと、続いて廻廊のはずれに集り、貴女は一。私は二。こう口々に楽しげに取定め、勇みて賽を待つ。)
可いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人また進む)三は五だ、戸塚へ行け。
(かくして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乗り、正面突当りなる窓際に進み、他と、間隔る。公子。これより前、姿見を見詰めて、賽の目と宿の数を算え淀む。……この時、うかとしたる体に書を落す。)
まだ、誰も上らないか。
やっと一人天竜川まで参りました。
ああ、まだるっこい。賽を二つ一所に振ろうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等く其方を凝視す。)
きゃっ。(叫ぶ。隙なし。その姿、窓の外へ裳を引いて颯と消ゆ)ああれえ。
侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫が、鮫が、入道鮫が、と立乱れ騒ぎ狂う。
入道鮫が、何、(窓に衝と寄る。)
ああ、黒鮫が三百ばかり。
取巻いて、群りかかって。
あれ、入道が口に銜えた。
外道、外道、その女を返せ、外道。(叱しつつ、窓より出でんとす。)
侍女等縋り留む。
軽々しい、若様。
放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髪が溢れて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙が喰入る。ええ、油断した。……骨も筋も断れような。ああ、手を悶える、裳を煽る。
いいえ、若様、私たち御殿の女は、身は綿よりも柔かです。
蓮の糸を束ねましたようですから、鰐の牙が、脊筋と鳩尾へ噛合いましても、薄紙一重透きます内は、血にも肉にも障りません。
入道も、一類も、色を漁るのでございます。生命はしばらく助りましょう。
その中に、その中に。まあ、お静まり遊ばして。
いや、俺の力は弱いもののためだ。生命に掛けて取返す。――鎧を寄越せ。
侍女二人衝と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、背後より颯と肩に投掛く。
公子、上へ引いて、頸よりつらなりたる兜を頂く。角ある毒竜、凄じき頭となる。その頭を頂く時に、侍女等、鎧の裾を捌く。外套のごとく背より垂れて、紫の鱗、金色の斑点連り輝く。
公子、また袖を取って肩よりして自ら喉に結ぶ、この結びめ、左右一双の毒竜の爪なり。迅速に一縮す。立直るや否や、剣を抜いて、頭上に翳し、ハタと窓外を睨む。
侍女六人、斉しくその左右に折敷き、手に手に匕首を抜連れて晃々と敵に構う。
外道、退くな。(凝と視て、剣の刃を下に引く)虜を離した。受取れ。
鎧をめしたばっかりで、御威徳を恐れて引きました。
長う太く、数百の鮫のかさなって、蜈蚣のように見えたのが、ああ、ちりぢりに、ちりぢりに。
めだかのように遁げて行きます。
公子 おお、ちょうど黒潮等が帰って来た、帰った。
ほんに、おつかい帰りの姉さんが、とりこを抱取って下すった。
公子 介抱してやれ。お前たちは出迎え。
侍女三人ずつ、一方は闥のうちへ。一方は廻廊に退場。
公子、真中に、すっくと立ち、静かに剣を納めて、右手なる白珊瑚の椅子に凭る。騎士五人廻廊まで登場。
(槍を伏せて、裾り、同音に呼ぶ)若様。
おお、帰ったか。
もっての外な、今ほどは。
何でもない、私は無事だ、皆御苦労だったな。
はッ。
途中まで出向ったろう、僧都はどうしたか。
あとの我ら夥間を率いて、入道鮫を追掛けて参りました。
よい相手だ、戦闘は観ものであろう。――皆は休むが可い。
槍は鞘に納めますまい、このまま御門を堅めまするわ。
さまでにせずとも大事ない、休め。
騎士等、礼拝して退場。侍女一、登場。
御安心遊ばしまし、疵を受けましたほどでもございません。ただ、酷く驚きまして。
可愛相に、よく介抱してやれ。
侍女一 二人が附添っております、(廻廊を見込む)ああ、もう御廊下まで。(公子のさしずにより、姿見に錦の蔽を掛け、闥に入る。)
美女。先達の女房に、片手、手を曳かれて登場。姿を粛に、深く差俯向き、面影やややつれたれども、さまで悪怯れざる態度、徐に廻廊を進みて、床を上段に昇る。昇る時も、裾捌き静なり。
侍女三人、燈籠二個ずつ二人、一つを一人、五個を提げて附添い出で、一人々々、廻廊の廂に架け、そのまま引返す。
燈籠を侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女をその上段、紅き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に礼して、美女に椅子を教う。
お掛け遊ばしまし。
美女、据置かるる状に椅子に掛く。女房はその裳に跪居る。
美女、うつむきたるまましばし、皆無言。やがて顔を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据えて瞬きせず。
――間。
よく見えた。(無造作に、座を立って、卓子の周囲に近づき、手を取らんと衝と腕を伸ばす。美女、崩るるがごとくに椅子をはずれ、床に伏す。)
どうなさいました、貴女、どうなさいました。
(声細く、されども判然)はい、……覚悟しては来ましたけれど、余りと言えば、可恐しゅうございますもの。
(心付く)おお、若様。その鎧をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのもごもっともでございます。
解いても可い、(結び目に手を掛け、思慮す)が、解かんでも可かろう。……最初に見た目はどこまでも附絡う。(美女に)貴女、おい、貴女、これを恐れては不可ん、私はこれあるがために、強い。これあるがために力があり威がある。今も既にこれに因って、めしつかう女の、入道鮫に噛まれたのを助けたのです。
(やや面を上ぐ)お召使が鮫の口に、やっぱり、そんな可恐い処なんでございますか。
はははは、(笑う)貴女、敵のない国が、世界のどこにあるんですか。仇は至る処に満ちている――ただ一人の娘を捧ぐ、……海の幸を賜われ――貴女の親は、既に貴女の仇なのではないか。ただその敵に勝てば可いのだ。私は、この強さ、力、威あるがために勝つ。閨にただ二人ある時でも私はこれを脱ぐまいと思う。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、仇から、世界から貴女を守護する。弱いもののために強いんです。
毒竜の鱗は絡い、爪は抱き、角は枕してもいささかも貴女の身は傷けない。ともにこの鎧に包まるる内は、貴女は海の女王なんだ。放縦に大胆に、不羈、専横に、心のままにして差支えない。鱗に、爪に、角に、一糸掛けない白身を抱かれ包まれて、渡津海の広さを散歩しても、あえて世に憚る事はない。誰の目にも触れない。人は指をせん。時として見るものは、沖のその影を、真珠の光と見る。指すものは、喜見城の幻景に迷うのです。
女の身として、優しいもの、媚あるもの、従うものに慕われて、それが何の本懐です。私は鱗をもって、角をもって、爪をもって愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思う。(従容として椅子に戻る。)
(起直り、会釈す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を覆して、ここへ、遠い海の中をお連れなすった、お力。道すがらはまたお使者で、金剛石のこの襟飾、宝玉のこの指環、(嬉しげに見ゆ)貴方の御威徳はよく分りましたのでございます。
津波位、家来どもが些細な事を。さあ、そこへお掛け。
女房、介抱して、美女、椅子に直る。
頸飾なんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けている、それは珊瑚だ。
まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。
あれは草です。較ぶればここのは大樹だ。椅子の丈は陸の山よりも高い。そうしている貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消残ったようであろう。少しく離れた私の兜の竜頭は、城の天守の棟に飾った黄金の鯱ほどに見えようと思う。
あの、人の目に、それが、貴方?
譬喩です、人間の目には何にも見えん。
ああ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、ここに、見ますれば私が裳を曳きます床も、琅の一枚石。こうした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情のう存じます。
いや、そんなに謙遜をするには当らん。陸には名山、佳水がある。峻岳、大河がある。
でも、こんな御殿はないのです。
あるのを知らないのです。海底の琅の宮殿に、宝蔵の珠玉金銀が、虹に透いて見えるのに、更科の秋の月、錦を染めた木曾の山々は劣りはしない。……峰には、その錦葉を織る竜田姫がおいでなんだ。人間は知らんのか、知っても知らないふりをするのだろう。知らない振をして見ないんだろう。――陸は尊い、景色は得難い。今も、道中双六をして遊ぶのに、五十三次の一枚絵さえ手許にはなかったのだ。絵も貴い。
あんな事をおっしゃって、絵には活きたものは住んでおりませんではありませんか。
いや、住居をしている。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振をしているんだから、決して人間の凡てを貴いとは言わない、美いとは言わない。ただ陸は貴い。けれども、我が海は、この水は、一畝りの波を起して、その陸を浸す事が出来るんだ。ただ貴く、美いものは亡びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦を亡ぼして、ここへ迎え取ったのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎え入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜ばねば不可い、嬉しがらなければならない、悲しんではなりません。
貴女、おっしゃる通りでございます。途中でも私が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎きなさいます事はありません。
美女 いいえ、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。ただ歎きますもの、悲しみますものに、私の、この容子を見せてやりたいと思うのです。
人間の目には見えません。
美女 故郷の人たちには。
公子 見えるものか。
(やや意気ぐむ)あの、私の親には。
貴方は見えると思うのか。
美女 こうして、活きておりますもの。
(屹としたる音調)無論、活きている。しかし、船から沈む時、ここへ来るにどういう決心をしたのですか。
それは死ぬ事と思いました。故郷の人も皆そう思って、分けて親は歎き悲しみました。
貴女の親は悲しむ事は少しもなかろう。はじめからそのつもりで、約束の財を得た。しかも満足だと云った。その代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。
けれども、父娘の情愛でございます。
勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。(頭を掉る)が、まあ、情愛としておく、それで。
父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚の砂に、父の倒伏しました処は、あの、ちょうど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました処なのです。そして、後の歎は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だったでございましょう。
じゃ、その枝珊瑚を波に返して、約束を戻せば可かった。
いいえ、ですが、もう、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、家蔵に代っていたのでございます。
可、その金銀を散らし、施し、棄て、蔵を毀ち、家を焼いて、もとの破蓑一領、網一具の漁民となって、娘の命乞をすれば可かった。
それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のような黒い人が、夜ごと夜ごと天井を覗き、屏風を見越し、壁襖に立って、責めわたり、催促をなさいます。今更、家蔵に替えましたッて、とそう思ったのでございます。
貴女の父は、もとの貧民になり下るから娘を許して下さい、と、その海坊主に掛合ってみたのですか。みはしなかろう。そして、貴女を船に送出す時、磯に倒れて悲しもうが、新しい白壁、艶ある甍を、山際の月に照らさして、夥多の奴婢に取巻かせて、近頃呼入れた、若い妾に介抱されていたではないのか。なぜ、それが情愛なんです。
はい。……(恥じて首低る。)
貴女を責るのではない。よしそれが人間の情愛なれば情愛で可い、私とは何の係わりもないから。ちっとも構わん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな故郷を思うて、歎いては不可ん。悲しんでは不可んと云うのです。
貴方。(向直る。声に力を帯ぶ)私は始めから、決して歎いてはいないのです。父は悲しみました。浦人は可哀がりました。ですが私は――約束に応じて宝を与え、その約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乗っても沈みはしまい。もし事実として、浪に引入るるものがあれば、それは生あるもの、形あるもの、云うまでもありません、心あり魂あり、声あるものに違いない。その上、威があり力があり、栄と光とあるものに違いないと思いました。ですから、人はそうして歎いても、私は小船で流されますのを、さまで、慌騒ぎも、泣悲しみも、落着過ぎもしなかったんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命はあるんですもの。覆す手があれば、それは活きている手なんです。その手に縋って、海の中に活きられると思ったのです。
(聞きつつ莞爾とす)やあ、(女房に)……この女は豪いぞ! はじめから歎いておらん、慰め賺す要はない。私はしおらしい。あわれな花を手活にしてながめようと思った。違う! これは楽く歌う鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。
手を挙ぐ。
たちまち闥開けて、三人の侍女、二罎の酒と、白金の皿に一対の玉盞を捧げて出づ。
女房盞を取って、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を両方に注ぐ。
めし上りまし。
(辞宜す)私は、ちっとも。
(品よく盞を含みながら)貴女、少しも辛うない。
貴女の薄紅なは桃の露、あちらは菊花の雫です。お国では御存じありませんか。海には最上の飲料です。お気が清しくなります、召あがれ。
あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽うて、うつむき飲む)は。(と小き呼吸す)何という涼しい、爽やいだ――蘇生ったような気がします。
蘇生ったのではないでしょう。更に新しい生命を得たんだ。
嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私がこうして活きていますのを、見せてやりとう存じます。
別に見せる要はありますまい。
でも、人は私が死んだと思っております。
勝手に思わせておいて可いではないか。
ですけれども、ですけれども。
その情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。
ええ、父をはじめ、浦のもの、それから皆に知らせなければ残念です。
(卓子に胸を凭出す)帰りたいか、故郷へ。
いいえ、この宮殿、この宝玉、この指環、この酒、この栄華、私は故郷へなぞ帰りたくはないのです。
では、何が知らせたいのです。
だって、貴方、人に知られないで活きているのは、活きているのじゃないんですもの。
(色はじめて鬱す)むむ。
(微酔の瞼花やかに)誰も知らない命は、生命ではありません。この宝玉も、この指環も、人が見ないでは、ちっとも価値がないのです。
それは不可ん。(卓子を軽く打って立つ)貴女は栄燿が見せびらかしたいんだな。そりゃ不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値をつけさせて、それに従うべきものじゃない。(近寄る)人は自分で活きれば可い、生命を保てば可い。しかも愛するものとともに活きれば、少しも不足はなかろうと思う。宝玉とてもその通り、手箱にこれを蔵すれば、宝玉そのものだけの価値を保つ。人に与うる時、十倍の光を放つ。ただ、人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる。
ええ、ですから……来るお庭にも敷詰めてありました、あの宝玉一つも、この上お許し下さいますなら、きっと慈善に施して参ります。
ここに、用意の宝蔵がある。皆、貴女のものです。施すは可い。が、人知れずでなければ出来ない、貴女の名を顕し、姿を見せては施すことはならないんです。
それでは何にもなりません。何の効もありません。
(色やや嶮し)随分、勝手を云う。が、貴女の美しさに免じて許す。歌う鳥が囀るんだ、雲雀は星を凌ぐ。星は蹴落さない。声が可愛らしいからなんです。(女房に)おい、注げ。
女房酌す。
(怯れたる内端な態度)もうもう、決して、虚飾、栄燿を見せようとは思いません。あの、ただ活きている事だけを知らせとう存じます。
(冷かに)止したが可かろう。
いいえ、唯今も申します通り、故郷へ帰って、そこに留まります気は露ほどもないのです。ちょっとお許しを受けまして生命のあります事だけを。
公子、無言にして頭掉る。美女、縋るがごとくす。
あの、お許しは下さいませんか。ちっとの外出もなりませんか。
(爽に)獄屋ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、僅少の憂あり、不平あるものさえ一日も一個たりとも国に置かない。が、貴女には既に心を許して、秘蔵の酒を飲ませた。海の果、陸の終、思って行かれない処はない。故郷ごときはただ一飛、瞬きをする間に行かれる。(愍むごとくしみじみと顔を視る)が、気の毒です。
貴女にその驕と、虚飾の心さえなかったら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だった。貴女、これ。
(美女顔を上ぐ。その肩に手を掛く)ここに来た、貴女はもう人間ではない。
ええ。(驚く。)
蛇身になった、美しい蛇になったんだ。
美女、瞳をる。
その貴女の身に輝く、宝玉も、指環も、紅、紫の鱗の光と、人間の目に輝くのみです。
あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つつ、わななき震う。雪の指尖、思わず鬢を取って衝と立ちつつ)いいえ、いいえ、いいえ。どこも蛇にはなりません。一、一枚も鱗はない。
一枚も鱗はない、無論どこも蛇にはならない。貴女は美しい女です。けれども、人間の眼だ。人の見る目だ。故郷に姿を顕す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全国の、貴女を見る目は、誰も残らず大蛇と見る。ものを云う声はただ、炎の舌が閃く。吐く息は煙を渦巻く。悲歎の涙は、硫黄を流して草を爛らす。長い袖は、腥い風を起して樹を枯らす。悶ゆる膚は鱗を鳴してのたうち蜿る。ふと、肉身のものの目に、その丈より長い黒髪の、三筋、五筋、筋を透して、大蛇の背に黒く引くのを見る、それがなごりと思うが可い。
(髪みだるるまでかぶりを掉る)嘘です、嘘です。人を呪って、人を詛って、貴方こそ、その毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇体になろう筈がない。遣って下さい。故郷へ帰して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない私の身が験したい。遣って下さい。故郷へ帰して下さい。
大自在の国だ。勝手に行くが可い、そして試すが可かろう。
どこに、故郷の浦は……どこに。
あれあすこに。(廻廊の燈籠を指す。)
おお、(身震す)船の沈んだ浦が見える。(飜然と飛ぶ。……乱るる紅、炎のごとく、トンと床を下りるや、颯と廻廊を突切る。途端に、五個の燈籠斉しく消ゆ。廻廊暗し。美女、その暗中に消ゆ一舞台の上段のみ、やや明く残る。)
おい、その姿見の蔽を取れ。陸を見よう。
困った御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。
(立つ。舞台暗くなる。――やがて明くなる時、花やかに侍女皆あり。)
公子。椅子に凭る。
――その足許に、美女倒れ伏す――
疾く既に帰り来れる趣。髪すべて乱れ、袂裂け帯崩る。
(玉盞を含みつつ悠然として)故郷はどうでした。……どうした、私が云った通だろう。貴女の父の少い妾は、貴女のその恐しい蛇の姿を見て気絶した。貴女の父は、下男とともに、鉄砲をもってその蛇を狙ったではありませんか。渠等は第一、私を見てさえ蛇体だと思う。人間の目はそういうものだ。そんな処に用はあるまい。泣いていては不可ん。
美女悲泣す。
不可ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰む。)
(背を擦る)若様は、歎悲むのがお嫌です。御性急でいらっしゃいますから、御機嫌に障ると悪い。ここは、楽しむ処、歌う処、舞う処、喜び、遊ぶ処ですよ。
ええ、貴女方は楽いでしょう、嬉しいでしょう、お舞いなさい、お唄いなさい、私、私は泣死に死ぬんです。
死ぬまで泣かれて堪るものか。あんな故郷に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。ここには悲哀のあることを許さんぞ。
お許しなくば、どうなりと。ええ、故郷の事も、私の身体も、皆、貴方の魔法です。
どこまで疑う。(忿怒の形相)お前を蛇体と思うのは、人間の目だと云うに。俺の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。
ええ、ええ、お殺しなさいまし。活きられる身体ではないのです。
(憤然として立つ)黒潮等は居らんか。この女を処置しろ。
言下に、床板を跳ね、その穴より黒潮騎士、大錨をかついで顕る。騎士二三、続いて飛出づ。
美女を引立て、一の騎士が倒に押立てたる錨に縛む。錨の刃越に、黒髪の乱るるを掻掴んで、押仰向かす。長槍の刃、鋭くその頤に臨む。
ああ、若様。
止めるのか。
お床が血に汚れはいたしませんか。
美しい女だ。花をるも同じ事よ、花片と蕊と、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に蔵っておこう。――殺せ。
(騎士、槍を取直す。)
美女 貴方、こんな悪魚の牙は可厭です。御卑怯な。見ていないで、御自分でお殺しなさいまし。
(公子、頷き、無言にてつかつかと寄り、猶予わず剣を抜き、颯と目に翳し、衝と引いて斜に構う。面を見合す。)
ああ、貴方。私を斬る、私を殺す、その、顔のお綺麗さ、気高さ、美しさ、目の清しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可さ。もう、故郷も何も忘れました。早く殺して。ああ、嬉しい。(莞爾する。)
解け。
騎士等、美女を助けて、片隅に退く。公子、剣を提げたるまま、
こちらへおいで。(美女、手を曳かる。ともに床に上る。公子剣を軽く取る。)終生を盟おう。手を出せ。(手首を取って刃を腕に引く、一線の紅血、玉盞に滴る。公子返す切尖に自から腕を引く、紫の血、玉盞に滴る。)飲め、呑もう。
盞をかわして、仰いで飲む。廻廊の燈籠一斉に点り輝く。
あれ見い、血を取かわして飲んだと思うと、お前の故郷の、浦の磯に、岩に、紫と紅の花が咲いた。それとも、星か。
(一同打見る。)
あれは何だ。
見覚えました花ですが、私はもう忘れました。
(書を見つつ)博士、博士。
(登場)……お召。
公子 (指す)あの花は何ですか。(書を渡さんとす。)
博士 存じております。竜胆と撫子でございます。新夫人の、お心が通いまして、折からの霜に、一際色が冴えました。若様と奥様の血の俤でございます。
人間にそれが分るか。
心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございましょう。
お前、私の悪意ある呪詛でないのが知れたろう。
(うなだる)お見棄のう、幾久しく。
一同
――万歳を申上げます。――
皆、休息をなさい。(一同退場。)
公子、美女と手を携えて一歩す。美しき花降る。
二歩す、フト立停まる。
三歩を動かす時、音楽聞ゆ。
一歩に花が降り、二歩には微妙の薫、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞えます。ここは極楽でございますか。
ははは、そんな処と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極楽に男は居らんぞ。
(鎧の結目を解きかけて、音楽につれて徐ろに、やや、ななめに立ちつつ、その竜の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に仄に見ゆ)
男の行く極楽に女は居ない。
――幕――
大正二(一九一三)年十二月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十六卷」岩波書店
1942(昭和17)年10月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2006年9月21日作成
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